Kuni HASEGAWA’s Story
僕の原点と、アメリカ
僕の実家は福井で江戸時代から続く桶屋。屋号を「桶久(おけきゅう)」といって、代々名前に「久」の字がついています。そんなわけで僕の名は「邦久(くにひさ)」といいます。とはいえ、実際に桶を作っていたのは祖父の代までで、父は木工と鉄工をやっていました。僕は三男坊なので、家業を継げと言われることもなく、木材を削る手伝いをちょっとやったりした程度。手先は多少、器用なほうだったかもしれないですけどね。
ものづくりを見て育ったおかげか、デザインの道へ進んだ兄の影響なのか、小学校6年生頃には「僕は建築家になる」と将来の夢をはっきり口にしていました。
話は少し反れますすが、僕は中学の時にアメリカからLPレコードを個人輸入したことがあるんです。1ドル=360円だった当時、洋盤は高くて中学生にはなかなか手が出せないものでした。そんな折、アメリカでは古いレコードが安く買えると知って、シアトルかどこかのレコード会社宛てに兄のタイプライターを借りて手紙を送ったんです。ある程度の数が集まらないとメリットがないので、友達から20〜30枚くらいの注文をとってお金を集め、郵便局で国際小切手を切ってもらって。そういうことって結構ハードルは高かったんじゃないでしょうか。英文の手紙のやり取りを数回重ねて、1年がかりでようやくレコードを手にすることができました。アメリカからレコードを買えたってことが、ただただうれしかったものです。なんでそんなことをやってみたのかよくわからないのだけど、ふとした好奇心から新しいことをやってみるということが、その後の僕の人生にもよくあるんです。
思い返せば、これが、僕が海外(アメリカ)と接した最初の経験かもしれません。
アメリカ!3,000kmのドライブ旅行
「アメリカへ行こうぜ」大学3年の夏、友達2人とともに、初めてアメリカへ渡りました。正確に言うと、僕はその夏、渡米費用を稼ぐために休学してアルバイトに専念していたので、友達より一足先にひとりでサンフランシスコへ到着していました。なぜサンフランシスコだったかって?そこには数年前に地元・福井で知り合ったアメリカ人留学生が住んでいたからです。彼女は初対面の僕を「遊びに来なよ」って気軽に誘ってくれました。そんな軽やかで自由な気風に憧れがあったのかもしれません。
とはいえ、当時、僕の周りにアメリカへ行った人なんて誰もいなかったし、インターネットもスマホもなかったから事前の情報はまったくなくて。ロサンジェルスでの乗り換えもめちゃくちゃ大変で必死で人に聞きまくって、ようやくサンフランシスコに辿り着いた時は、もうヘトヘト。彼女が友人と二人で空港まで迎えにきてくれた時は本当にうれしかったですね。
2週間くらいひとりでサンフランシスコで過ごした後、友達2人と合流。3人で車を購入して、いざスタート。車はポンテアックの8気筒、2ドアだったんだけど、そのドアがとてもでっかくて。リッター3キロくらいしか走らなかったかなぁ。ガソリンは安かったけどね。サンフランシスコを出発して、リノ、ラスベガス、グランドキャニオン…。飛行機でたまたま隣に座ったおばあちゃん家を訪ねたり、コインランドリーで出会ったおばちゃんが「今夜はもう遅いから」って自宅に泊めてくれたり、そのおばちゃんの旦那さんのお父さんの家を目指したり…行く先々で出会った人たちとふれあいながら、ときには野宿もしながら旅を続けました。
アメリカはとにかく桁違いにスケールが大きかったですね。ある夜、ヨセミテあたりだったか国立公園内に車を停めて寝ていたら、パークレンジャーみたいな人にサーチライトで照らされて「車の中で寝てはいけない、外で寝ろ」と注意され、しぶしぶ車外に出たんです。すると「おおお〜っ」。そこには、これまで見たことのないほどに壮大で美しい満点の星空が広がっていました。
最終的に1か月ちょっとかけて、ほぼ日本縦断くらいの距離を走破し、サンフランシスコで車を売って、日本に帰ってきました。インスタントラーメンとホットドッグばかりの貧乏旅だったけれど、あれはほんと、いい経験をしましたね。
このときの僕は、数年後に自分がアメリカで働くことになるなんて思ってもいませんでした。
アメリカで、建築を極めてこい
やがて夏が終わり、アメリカ旅行のために休学した僕は、大学3年生を2回やることになりました。
そこで出会ったのが恩師の玉置先生で、半ば強制的に先生のゼミに入ることに。毎朝8時から都市計画・住宅問題について書かれた英文を翻訳して読まされるという過酷なものだったんだけど、その準備にだいたい4時間はかかるんです。僕は必死でした。ほんと大変だったけれど、これは後に論文を書くときなどに大いに役立ちました。
大学1〜4年生の2年間は、とにかく、がっつり住宅問題に取り組みました。翻訳のほかにも、国内の住宅の調査・研究のために鹿児島市や奄美大島、新潟市などに足を運んで2週間くらい腰を据えてヒアリングしたり写真を撮ったりしました。訪ねた家のおばあちゃんに「お茶でも飲んで行きなさい」と親切に迎え入れてもらったり、地域によって異なる日本家屋の間取りを描かせてもらったりして、おもしろかったし、とても勉強にもなりました。
卒業が近くなり、周りの友人たちが次々に就職先を決めていくなか、就職活動をしていませんでした。「とりあえず、アメリカに英語を勉強しに行こう」とぼんやりと考えていた僕を、先生は一喝。「設計をやりたいやつはごまんといるが、実際にそれで食っていけるのはせいぜい5%程度だ。それに、アメリカに行って英語を喋れるやつなんて掃いて捨てるほどいる。せっかくアメリカへ行くんだったら(建築の)修士を取ってこい!」その一言は、ズシリと胸に響きました。
一気にハードルが上がりましたが、それで覚悟が決まり、片道切符を手に僕はアメリカへ渡ったのです。
サイアークでのサイコーの経験
アメリカで1年間、英語を学んだ後、僕は「Southern California Institute of Architecture:南カリフォルニア建築工科大学」という全米でも珍しい建築専門大学に入学しました。通称のSCI-Arc.(サイアーク)は、日本語の音にすると“最悪”になっちゃうのですが(笑)、この学校での経験は“最高”でした。「建築実験室」の異名をとる先鋭的な環境で、現役で活躍中の講師陣から学べたことはかけがえのない財産になりました。
特に、ヨーロッパの建造物を巡る「Summer Studioin Europe」に参加したことは忘れることのできない素晴らしい体験でした。1980年の6月から2か月余りで、僕はイギリス、フランス、オランダ、フィンランド、スペイン、イタリア、ギリシャ、トルコ、オーストリア、ドイツのたくさんの建造物を見て回りました。コルビュジェやアルバー・アアルトの手がけた建築の素晴らしさを肌で感じたあの感動は、後に仕事をする上で大いに役立っていると思います。
村の人がサッカー大会を我々のために開催してくれた。
このスタジオの講師を務めたのは「建築設計事務所モーフォシス」主宰のマイク・ロタンディとトム・メイン。トムは後に建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞に輝いた世界的な建築家です。
余談ですが、この参加費用を捻出するために、ビンボー学生だった僕は家賃を節約しようとアパートを引き払い、3〜4か月ほど学校に住んでいました。教室の机の下に寝袋を置いていて、みんなが帰った後、そこで寝泊まりしていたんです。図面を描くために与えられた机はとても大きいので、寝るスペースは十分。クラスのみんなも、僕が寝泊まりしていることを知っていて、友達が教室の一角に簡単なキッチンを作ってくれました。そこで焼飯や餃子を作っては、遅くまで残って図面を引いている友達と一緒に飯を食ったのも今となっては、いい思い出ですね。
設計とは、何もないゼロの状態から新しいものを作っていくものですが、僕の頭の中には常にその建物の中を歩いていく感覚があるんです。例えば、暗くて狭い通路を進んで行くと、その先が突然、広く開けて明るい光がワーッと入ってくる。そんなドラマチックな情景が鮮明に浮かんでくるのは、僕が実際にヨーロッパの教会などを訪れて、そういった感覚を体験してきたから。各国を巡り、さまざまな空間に身を置いて、その感覚を刻み込んできたことが、今の僕の想像力の幅を広げ、そのイメージを形にする糧になっているんです。
デザインに対する姿勢
卒業後、僕はアメリカの設計事務所で働き始めます。卒論発表のときに知り合った友人の縁で、「アーサー・エリクソン建築設計事務所」に入社することができたのはラッキーでした。
世界的に有名な建築家であるアーサーが、ロサンゼルスのダウンタウン・バンカーヒル地区にカリフォルニアプラザを建設するにあたってロサンゼルスにオフィスを構えるタイミングだったんです。同プラザは三つの高層オフィスを始め、ロサンゼルス現代美術館(MoCA)、ホテル、居住スペースを備える巨大プロジェクトでした。その象徴である高層タワーの模型を作るのがジュニアデザイナーだった僕の役目。ジュニアデザイナーというのは、要は一番下っ端ですから、当時の僕は、ここで何を盗めるかということを常に考えていましたね。アーサーがラフに描いたスケッチを元に、僕は図面を起こして模型を作るのですが、彼はデザインになかなか納得がいかなかったようで、何度も何度もタワーの模型を作りました。通常、模型は1〜2本作れば十分なのですが、この時は最終的に12〜13本もの模型を作ったかと思います。
そうして徹底的にデザインを練り上げた甲斐あってか、タワーは1997年にBOMAビルディングオブザイヤーに選ばれました。
アメリカではデザインというものに対してのウエイトが非常に大きくて。ここで、とことんまで突き詰めていくという、デザインに対する姿勢を僕は骨の髄まで叩き込まれたのです。
今でも、僕はできるだけ模型を作るようにしています。それは空間を多角的な面から検証するため。頭の中で考えるだけでなく、実際に形作ってみることで建物の中からの見え方とか、反対側からはこんな雰囲気になるとか、図面やパースでは気づかなかったディティールがあぶり出されてくるのです。
1cmの差が後々、大きなズレに発展することもあり得る。だからこそ、設計というものの価値観を損なうことなく、初期段階から、しっかりと時間をかけて検証していくのがベストだと思っています。
Arthur Erickson Los Angeles Office(工事中)にて
相手の視点に立った設計を
最初の1年で英語を、3年半で建築デザインを学び、設計会社では4年間お世話になりました。その後8年半のアメリカ生活を終えて帰国。日本の企業で働くことにしました。
まず、商業施設・店舗の企画や設計にも興味があったので(株)船場に就職。ここで日本の仕事(設計、施工全般)のやり方を覚えることができたことは大きかったし、新人でもどんどん現場に行かせてもらえたので、実践を積むことができました。台湾では、現地の古い百貨店を改装して新規オープンさせるために西武百貨店のバイヤー達と打合せしながら売場の設計をしたり、ヤオハン(大手量販店)のアメリカニュージャージー新規開発物件では単身で3か月くらいニューヨークに常駐したりと、様々な仕事を経験しました。
その会社で培った人脈を生かして2年後、今度は発注側である(株)西武百貨店へ転職しました。そこでは、設計をする立場ではなく、プロジェクト全体のマネージメントをするという役割を担うことになりました。特に香港では、海外新店を売場計画から開店までのプロセスを経験できたのはとても勉強になりましたし、アメリカ以外の海外事情を知ることができたのもまた非常に有意義でした。
振り返れば、帰国後も何かと海外に赴任することが多く、行く先々で多くの人と知り合い、異なる文化や考え方を吸収することができました。文化を吸収するということは相手のことを理解することに近いなって。それによって、今、相手の視点に立った設計ができるようになったのかもしれません。
僕は、コンペで勝って自分のデザインをガンガン主張していくというより、僕の会社を選んでくれたお客さんとたくさん会話をしながら、プランを作り上げていくのが好きです。模型を作って見せて、相手が納得しなければ修正していく。丁寧に対話を重ねながら、より良いものを仕上げていくスタイルが好ましいと考えます。常に相手が何を望んでいるのかを理解したいと思っています。
つながること、答えを導くこと
帰国して8年後の1996年に独立し、(有)ケーネットデザインを設立しました。
独立後も、企画・設計からデザイン・施工監理、販促関連業務、オペレーション対応調整業務まで、幅の広い仕事をたくさんさせてもらっています。特に、沢山の人が関わって出来上がる商業施設のデザインはチームで業務を進めていくことが多いので、僕の性格的にも得意とするところです。社内のメンバーだけでなく、ワールドワイドなネットワークを生かした海外の人との仕事も多いです。
今の時世ではままならないけれど、これまで何百回となく渡航しているから「明日アメリカへ行け」と言われれば、すぐに飛んで行くフットワークの良さが身上。これまでに培ってきたグローバルなネットワークを活用してスムーズに仕事を進めることができます。たとえ行ったことがない場所でも、どこかに切り口をみつけて突破口を開き、つながる自信はありますね。
僕は幼少期から父に「お前は商売人の子だ。大阪で迷子になっても一人でちゃんと家(福井)まで帰って来れるはずだからな」と言われてきました。また、大学時代の恩師には「君はどこに行っても大丈夫だ」と太鼓判を押されました。確かに、これまで困難なことでも臨機応変に方法を見いだして、なんとかやり遂げてきたように思います。
とはいえ、1から10までひとりでやろうとしても、無理があります。「6割は僕がやるから手伝ってくれないかな」とか、逆に「ここまでやってくれたら後は僕に任せて」とか、人を巻き込んでいくのは得意なほう。そういう“貸し借り”や人と人とのつながりが僕は大好きなんです。おかげさまでこれまでやってくることができました。そうやって、僕とつながってくれたみなさんには心から感謝しています。
僕が仕事の上で大切にしているのはプランニング。最初のコンセプトやゾーンニング、動線計画をきちんと決めることが重要だと考えています。この点に関しては、いつも、とことん納得のいくまで練り上げるようにしています。
建築は、他のアートに比べ、スケールも大きく、施工が発生します。複数の人が関与し、時間もお金もかかるため、やり直しが難しい。商業施設にしても住宅にしても、関わる人の想いを整理し、設計の中に組み込んでいくことが、プランニングです。そしてブランドイメージを具現化したり、効率の良いオペレーションが出来る様にするのが設計だと思います。これも欲しい、あれも欲しいと欲張りたくもなる。矛盾した要望もある。障害になる条件もある。もしかすると、実際には言葉と裏腹のことを求めているのかもしれない。
プロジェクトの規模に関係なく、いろいろな条件や相互関係をしっかりと調査、理解し、検討、対話を重ねながら整理し、いつでも最善の答えを導き出したいと思っています。たとえば商業施設であればどうお客さんが楽しくショッピング出来るかとか、店員さんが効率よく仕事がしやすくしてほしいと思っています。住宅であれば家族の思いや楽しい会話が生まれる様にあるべきでしょうか。さらに、良い建築であるためには感動や楽しさも組み込めたらいいなあと考えています。40年以上の国内外のいろんな文化や建築経験に加え、新しい知識や情報、スペシャリストのネットワークをもってみなさんの思いや願いをより近いものにできるようにサポートしたいと思っています!
インタビュー:西岡裕子(P-HOUSE)